CAT'S EYE(猫の視点)

<   2012年 10月 ( 3 )   > この月の画像一覧

敗北の果てに見る風景

e0089531_21231375.jpg


子どもの頃は、自分の知っている世界の範囲がまだ狭いにもかかわらず、目にする風景は現在のそれと比べて広かったように思われる。本当に幼かった頃、たとえばまだ少ししか歩くことができず、一日の大半をベッドで過ごした頃、自分の意識は常に外界に向けられていた。その代わり自我と向き合うことは無かった。

ところが成長するに従い、意識が自我すなわち内面に向かっていく頻度が高まるにつれて、風景は徐々に狭まってきた。外界に関する知識が以前よりも増しているにもかかわらずである。このことは、風景というものが自我に対して対立的に存在していることを示しているのであろうか。

しかしながら、自我に向かい時には葛藤している時でさえも、自分の周囲にある風景は存在しているのである。ただ、その見方は明らかに違ってくる。風景というものは、見ているその人の心情や世界観を映す鏡である。もし、誰か別の人と同じ風景を見ている人がいたとして、彼らの魂が入れ替わったとしたらどうであろう。おそらく目にしている事物は何一つ変わらないにもかかわらず、彼らは世界のあまりにも大きな変貌振りに驚くに違いない。身体や自分達の置かれている状況や心情の違いが世界観の違いを生み出し、目にする物理的な事物を用いてそれぞれの風景を創り出しているからである。風景は自我に対して対立的に存在しているのではなく、内在的に存在しているのだ。

時として、何かに思い悩んだりした末に、ふと視界が開けるような気持ちになり、何らかの結論に辿りつくことがある。敗北という体験も、同じような感覚を引き起こす。およそスポーツであるにしろ、精神活動であるにしろ、闘争の相手は結局のところ自分自身の自我であることが多い。

風景は、それが敗北という形であれ他の形であれ、それらの闘争に区切りがつき、自我に向ける我々の眼差しが一瞬ゆるんだ時に、それまでとは違う思いもよらない方向から意識の中に滑り込んでくるのである。そのような時に見る風景は、時として悲しいほどに美しく、何か懐かしい気持ちにさえさせることがある。恐らくそれは、外界に向ける視線、すなわち意識の強度が一瞬幼い頃のそれと似るため、そう感じるのだろう。

そして人は、自我に向ける視線を消し去ることにより、永遠にその風景の住人になることを潜在的に望んでいるのだ。


※19歳の時に藤原新也の『幻世』にあるエッセイ「四十二・一九五キロの旅」からインスパイアを受けて書いた文章。
[PR]
by mikeneko301 | 2012-10-17 21:26 | 雑感

カテドラル

e0089531_17562693.jpg


真冬のカテドラルは、人がほとんど居なかったこともあり、吐く息も白く凍てついていた。

中に入ると祭壇を歩きながら、時々手振りを交えて、ゆったりと荘厳な雰囲気で唄う初老の男性がいる。洞窟のような、胎内のような聖堂の壁に反射する声が、静かな大地の響きのように深く、どこまでもこだましていた。彼の白い肌は赤みがかり、金色の髪の毛が、時々差す外光に光っていた。

その日は、グレゴリオ聖歌のコンサートが夜にあるので、それのリハーサルなのだと、側にいるスタッフの男性が説明してくれた。唄っている司祭のような身なりの男性は、パリ大学の神学の教授であり音楽家でもあるのだという。

音をたてないように少し近づいたが、ロングコートの裾を少し持ち上げたとき、ブーツの踵が一瞬だが床に当たってしまった。

コツッーーーーーーーーーーーー・・・・・・・・・・・。

響く音の最後の余韻が、険しい山の岩肌を撫でる風の音の余韻に似ていた。カテドラルの壁は、山の岩肌を思わせた。

その数年後、私は同じ場所で撮影の準備をしていた。連載しているエッセイのための取材許可が下りたのだ。感無量な気持でシャッターを切った。色々な想いが交錯していた。撮影が終わった後、しばらくの間席に着き、ぼんやりとしていた。
[PR]
by mikeneko301 | 2012-10-14 17:48 | 散歩

intensity into the boundary

e0089531_2226950.jpg


「人は無限の中、定義できないもの中で生きることは
 できない。われわれには制限が、境界が必要だ」
(「魂と弦」 イヴリー・ギトリス)


あなたと私の境が無ければ、

私は私として存在することはできない

未知を知ること、有るものを有らしむために

それは空と海の境界を探す旅と似ているかもしれない

生きる、ということは…


何を見るにしても、考えるにしても、そこには常に
「何故私はここにいるのか?」という素朴な疑問がある。

以下「未来からの贈り物(宇宙物理学者フリーマン・ダイソン) からの抜粋メモ

-----------------------------------------------

Q:”心”とは何か、ということを科学的に定義していただけませんか?

私にとって、今の時点で心を科学的に定義することは何の役にも立ちません。それは私たちは心について実は何も知らないという事実を隠してしまうからです。

Q:このインタビューであなたは何度も「私にはわかりません」とおっしゃいます。宇宙を前にしたとき、それはとても大切な姿勢だと思うのですが・・・?

その通りです。偉大な物理学者だった私の恩師のリチャード・ファイマンはこう行っています。「疑問とは理解を妨げるモノではない。疑問こそ理解のエッセンスだ」と言っていました。ですから私が”わからない”と言うときはわかりはじめているという意味なのです。

Q:”わかっていない”という事を知ることが理解の始まりだと思うのですが・・・?

ええ、そして知らない事が多ければ多いほど理解するチャンスが増えると言うことなんです。

Q:それが私たちがココにいる理由ですね!

その通り!

 たしかに、私たちには生きていると言うだけで一つの満足感があります。しかし、人間はさらにずっと大きな自分を越えた目的を持つこともできます。実際人間は自分よりずっと大きな目的に関わっていたほうがより幸せなのです。それが宗教を生みだし社会をうごかしてきた原動力なのです。

 人間には自分の一生という限られた時間を越える目的が必用なのです。その目的が何なのか客観的にはわかりませんが、私たちはそれを探し求めています。私自身はこの宇宙には私たちの創造を遥かに越えた大きな目的があると信じています。それが何であるのか私にはわかりません。

 私は自分が人間であるという事実についてはさほどの驚きはありません。つまり、宇宙のどこに生まれようとも何らかの体を持っていなければならないからです。おどろくのは私たち人類はまだとても幼いということです。天文学的な視点から見ると、人間はまだちょっぴりと脳のある猿にしか過ぎない。それなのに、こんなにも沢山のことを理解している。私がおどろくのは人間が全てを理解していないという事ではなく、少しでも理解しているという事なのです。
[PR]
by mikeneko301 | 2012-10-04 22:27 | 本・音楽・アートなど



日々の雑感や妄想とか。