CAT'S EYE(猫の視点)

<   2011年 03月 ( 1 )   > この月の画像一覧

脱ユートピアの風景

e0089531_2023378.jpg



オーム社の月刊誌『設備と管理』に「風景を彩るモノ」というエッセイを書くようになってから、ちょうど5年経つ。編集部の方々には申し訳ないのだが、毎度ギリギリになるまでテーマが決まらず、締め切り数日前になってようやく重い腰を上げ、カメラを片手に関東界隈をウロウロし始める。

2月、雪が降った次の日に庭園を歩いて数十分。今回はなぜか思ったような写真が撮れずにいた。
JR浜松町駅から徒歩約10分の位置にある浜離宮恩賜庭園は、オフィス街の真ん中にあるため360度ビル群に囲まれている。そのため庭園の写真を撮ろうとファインダーをのぞけば、必ずと言っていいほど、日本庭園の風景の向こうに高層ビルが入ることになるのだ。

休憩所のベンチに座り缶コーヒーを飲みながら、これからどうしようかと考えていたところ、ふと昨晩読んだ本に書かれていたことが頭に浮かんだ。

それは、ミシェル・フーコーがかつて考察した監獄とユートピアの相関関係について、ある編集者が言及したエッセイで、ユートピアを目指すほどにその空間は不自然で病理的なものになっていくという話であった。

そのとき、納得のいく写真が撮れないのは、それまで庭園の写真を撮る際にファインダー内からビルを無意識に外していたからだということに気がいた。そして、ここ最近自分の書く文章や撮る写真に行き詰まりを感じている原因が、そこにあるということにも。

写真を撮るということは、恣意的に風景を切り取るという行為だ。
それはともすると自身が勝手に描いたユートピアに風景を閉じこめることにもつながる。
意図してそのような写真を作品とする技術もあるが、それは今自分がすべきことではないように思えた。

私はユートピアの病理は狭量さにあると考える。
自身の内面にあるものであれ国家レベルのものであれ、ユートピアに向かう行為はその空間に関わる人の心に狭量さと排他性を生む。
ファシズムであれ共産主義の行き過ぎた思想統制であれ、その背後にあるのはユートピアを求める意思があったのだと思う。だが、それがどのような悲劇を生むことになったかは、20世紀の歴史がすでに証明している。
私は無意識のうちに自然庭園というユートピアを作ろうと私の風景からビルを排除していたのだ。

コーヒーの缶をゴミ箱に投げ込むと、今度はビルに囲まれた日本庭園として浜離宮の風景を切り取ってみることにした。庭園の木々の向こうにそびえるオフィスビルやタワーマンション。それが、現代における自然な浜離宮の姿だと思えた。

自然風景の模倣であるにせよ庭園もまた人工物に変わりない。そして人もまた自然の一部と考えるなら自然物と人工物の境界も本来はないはずだ。
[PR]
by mikeneko301 | 2011-03-10 20:41 | 散歩



日々の雑感や妄想とか。