CAT'S EYE(猫の視点)

カテゴリ:散歩( 5 )

カテドラル

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真冬のカテドラルは、人がほとんど居なかったこともあり、吐く息も白く凍てついていた。

中に入ると祭壇を歩きながら、時々手振りを交えて、ゆったりと荘厳な雰囲気で唄う初老の男性がいる。洞窟のような、胎内のような聖堂の壁に反射する声が、静かな大地の響きのように深く、どこまでもこだましていた。彼の白い肌は赤みがかり、金色の髪の毛が、時々差す外光に光っていた。

その日は、グレゴリオ聖歌のコンサートが夜にあるので、それのリハーサルなのだと、側にいるスタッフの男性が説明してくれた。唄っている司祭のような身なりの男性は、パリ大学の神学の教授であり音楽家でもあるのだという。

音をたてないように少し近づいたが、ロングコートの裾を少し持ち上げたとき、ブーツの踵が一瞬だが床に当たってしまった。

コツッーーーーーーーーーーーー・・・・・・・・・・・。

響く音の最後の余韻が、険しい山の岩肌を撫でる風の音の余韻に似ていた。カテドラルの壁は、山の岩肌を思わせた。

その数年後、私は同じ場所で撮影の準備をしていた。連載しているエッセイのための取材許可が下りたのだ。感無量な気持でシャッターを切った。色々な想いが交錯していた。撮影が終わった後、しばらくの間席に着き、ぼんやりとしていた。
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by mikeneko301 | 2012-10-14 17:48 | 散歩

風景の深度、あるいは内面への眼差し

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季節の変化は、空気の感触の変化から一番感じられるのではないだろうか。初夏から夏にかけての夕暮れ時、あるいは秋雨の一晩降った翌朝の雨上がりの道を歩くとき、静かな高揚感を感じる。濡れたアスファルトが、まだ高い陽の光に照らされ、車についた水滴の一粒ひとつぶに、空の色が映る。あるいは、若干湿り気のある真新しい空気がこれまで見慣れた風景を、夢の中で見る自分の故郷のように、どことなく現実感から離れた表情に見せることもある。

水たまりを最後にのぞき込んだのはいつだっただろうか。夕立の残した水たまりは、子ども時代にはごく自分と近い場所にあったように思われたが、大人になった今となっては靴を濡らさないように避ける対象のみとなってしまっている。視界の中には入っているのだが、中を見るのと避けるために見るのとでは、そこに注ぐ眼差しが全く異なる。

かつて幼い私にとっての水たまりは空想の中にある違う街の入り口であった。水たまりの中に映る逆さまの街は、手を伸ばせば届きそうに思えた。街並みから空へと視線を向けると水深が無限にあるように見え、それをのぞきこんでいる自分の体がかすかな浮遊感を感じるのであった。

風景は建築などの人工物や木々などの自然物に限らず、物理的にそこにあるものから作られる。しかし同時に風景は人の心を映す鏡なのだと思う。そしてほんの少し日常のそれとは異なる目線を持つだけで、退屈に思える街並みも鮮やかに色づくことがある。雨は日常にあるものでありながらも、日常の風景を一瞬にして変える一つの要素なのかもしれない。そんなことを思いながら、雨の街並みを歩いてみようと思う。
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by mikeneko301 | 2012-09-26 23:00 | 散歩

風車と時の水脈

e0089531_21342541.jpg地下鉄みなとみらい線 馬車道駅から赤レンガ倉庫の方角へ歩くと、遠くに風車を見ることができる。

これはハマウィングという名の風力発電施設であり、住民有志による「ハマ債風車(かざぐるま)」と企業協賛によって建設され、2007年3月に稼働を開始した。

昨年度までの年間平均発電実績は約223kWh。たった1台の風車とはいえ、2009年度の発電量は一般家庭の年間消費電力で約660世帯分に相当する。

風力発電所は、騒音や万が一の事故などに備え、人家から離れた場所に建てられるが、ハマウィングは一般人がふだん近づくことすらできない。横浜ノースドッグと呼ばれる米軍基地内の小型艦隊の並ぶ、瑞穂ふ頭に建てられたからだ。

以前、国内外で活躍する風車アーティスト朝岡あかね氏の呼びかけと、建設の事業主体である横浜市地球温暖化対策事業本部の協力もあり、見学ツアーという形でその場所を訪れる機会に恵まれた。埋め立て地となっている埠頭につながる橋を渡ると、そこは横浜でいてアメリカの土地でもある場所となる。

風車に近づくと、低いうなり声が聞こえた。「風車は風という目には見えないものを可視化するの。それに電気は人工物の象徴とも言えるけど、風車はそこに人がいなくても電気を生み出す。その一見当たり前に見える不思議さに私は魅せられてしまったの」と、ツアーを企画する時に朝岡氏は熱っぽく語っていた。

その話を思い出しながら、私はその場所の風景が時間の裂け目であるかのように感じていた。錆び付いたフェンス越しの荒れた草原の向こう、ギラギラとした陽光が作る光と影の強いコントラストの中に浮かぶ軍事基地は、いまだ稼働しているにもかかわらず、打ち捨てられた過去の遺物のように見えた。

それはおそらく目の前に白くそびえる風力発電所である風車が、人と自然界の共生を模索する近未来の文明を予感させるものであり、少なくとも戦争とは対局にある存在に感じられたからだと思う。

そして足もとに目をやった時、またもう一つの象徴を見つけた。どの土地からこの埋め立て地に運ばれてきたのか、風車周辺の砂利の多くがガラスのように黒光りしていた。拾い上げて欠けた断面を見ると、それは確かに黒曜石であった。

生活用具の材料として黒曜石が使われた歴史は2万年とも3万年とも言われ、人類の文明の起源を探る手がかりにもされている。過去と未来の狭間とも言える場所で、突如見えない地下水脈から水が噴き出るかのように無数に散らばる黒曜石。それは道具の歴史の始まりの象徴のように思えた。

道具は人類の歴史とともに形を変え、軍艦が象徴する文明の形、風車が示唆する文明の形を見せるようになった。私たちはどこから来て、どこへ向かうのか。風車と軍艦と黒曜石を交互に見ながら、私はそんなことを考えていた。

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by mikeneko301 | 2012-09-11 21:40 | 散歩

脱ユートピアの風景

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オーム社の月刊誌『設備と管理』に「風景を彩るモノ」というエッセイを書くようになってから、ちょうど5年経つ。編集部の方々には申し訳ないのだが、毎度ギリギリになるまでテーマが決まらず、締め切り数日前になってようやく重い腰を上げ、カメラを片手に関東界隈をウロウロし始める。

2月、雪が降った次の日に庭園を歩いて数十分。今回はなぜか思ったような写真が撮れずにいた。
JR浜松町駅から徒歩約10分の位置にある浜離宮恩賜庭園は、オフィス街の真ん中にあるため360度ビル群に囲まれている。そのため庭園の写真を撮ろうとファインダーをのぞけば、必ずと言っていいほど、日本庭園の風景の向こうに高層ビルが入ることになるのだ。

休憩所のベンチに座り缶コーヒーを飲みながら、これからどうしようかと考えていたところ、ふと昨晩読んだ本に書かれていたことが頭に浮かんだ。

それは、ミシェル・フーコーがかつて考察した監獄とユートピアの相関関係について、ある編集者が言及したエッセイで、ユートピアを目指すほどにその空間は不自然で病理的なものになっていくという話であった。

そのとき、納得のいく写真が撮れないのは、それまで庭園の写真を撮る際にファインダー内からビルを無意識に外していたからだということに気がいた。そして、ここ最近自分の書く文章や撮る写真に行き詰まりを感じている原因が、そこにあるということにも。

写真を撮るということは、恣意的に風景を切り取るという行為だ。
それはともすると自身が勝手に描いたユートピアに風景を閉じこめることにもつながる。
意図してそのような写真を作品とする技術もあるが、それは今自分がすべきことではないように思えた。

私はユートピアの病理は狭量さにあると考える。
自身の内面にあるものであれ国家レベルのものであれ、ユートピアに向かう行為はその空間に関わる人の心に狭量さと排他性を生む。
ファシズムであれ共産主義の行き過ぎた思想統制であれ、その背後にあるのはユートピアを求める意思があったのだと思う。だが、それがどのような悲劇を生むことになったかは、20世紀の歴史がすでに証明している。
私は無意識のうちに自然庭園というユートピアを作ろうと私の風景からビルを排除していたのだ。

コーヒーの缶をゴミ箱に投げ込むと、今度はビルに囲まれた日本庭園として浜離宮の風景を切り取ってみることにした。庭園の木々の向こうにそびえるオフィスビルやタワーマンション。それが、現代における自然な浜離宮の姿だと思えた。

自然風景の模倣であるにせよ庭園もまた人工物に変わりない。そして人もまた自然の一部と考えるなら自然物と人工物の境界も本来はないはずだ。
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by mikeneko301 | 2011-03-10 20:41 | 散歩

マンホールにも緑地

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家の前のシダレザクラがほころびかけている。
あと一週間もすれば、きっと満開になるはず。
今年も春がきた(冬がなかった気がするけど)。

ともすれば自然は、人里離れた場所や人工的な公園内
にだけあると思われがちだけど、実は都内にも、いたるところに
動植物は生息・生育している。

たとえば、マンホールの縁、ひび割れたアスファルトの隙間にも、
こうして苔や雑草が生育している。

こうして見ると、原生林の中で見る大木などとは、また違った
意味で生命力の“強さ”のようなものを強烈に感じてしまうことがある。

地表を覆う人工物という境界を、いとも簡単に突き破る力。
もし数十年間放っておけば、西新宿の高層ビル群だって
原っぱのようになってしまうはずだ。

「地球に優しく」「自然を守れ」などと薄っぺらな言葉を人間たちが
投げつけあっている間にも、人知れず、したたかに彼らは生き続けている。
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by mikeneko301 | 2007-02-27 21:21 | 散歩



日々の雑感や妄想とか。