CAT'S EYE(猫の視点)

 blue/azul

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ごく幼い頃は多くの国籍の人達が常に自分の周囲にいた。
窓から見える雪景色や、白檀の香り、あるいは両親の歌うサンスクリット語の歌とともに、多くの種類の言語が、まるで家具の一つ一つのように、私の風景の一部となって環境を創りだしていた。

全ての言語には、独特の言い回しや、その言葉の持つ色合いのようなものがある。私が拙い英語で話しているとき、ふだん日本語で話している時、私の周囲にある全ての事物の陰影は、全く違う見え方をする。

言語は、その時代、その土地の人間の精神構造の指標のひとつだと思う。なぜなら、言語は環境を作り出す一つのファクターであるし、ほとんどの人は、世界を捉えるときに媒介として言葉に多くを頼るからだ。

これは意味上のことにおいてもそうだし、音の持つ響きが作り出すバイブレーションについても言えることだと思う。

たとえばblueとazulは英語とスペイン語で青という意味なのだが、その音の響きから想起する青は、果たして同じ青なのだろうか。

私に関して言えば、青、blue、azulは同じ青でも、それぞれが全てニュアンスの違う色彩のように感じられる。また、そうであるが故に土地が違うもの同士のコミュニケーションは時として壁にぶつかることがあるのだと思う。

意味においては、こんな例もある。古代ギリシャ語に“ポポイ” という読み方をする単語があるのだが、これを日本語訳すると「愛」あるいは「哀」。古代ギリシャ人の感性では、愛と哀しみは、コインの表裏のような関係にあったことが窺える。さらに、その「愛」と「哀」の持つ意味すらも、現代とは少し違っていたのではないかと思う。

愛しさと切なさに関する表現は、日本の文学なんかにも度々出てくるが、“ポポイ”の二つの意味を同時に表記する単語は今の日本語にはないし、英語にも適当な単語がない。 愛、哀しみ、love、sadnessとハッキリ分かれている。日本においては、古典文学で使われる“もののあはれ”が少しは近いのだろうか。

コトバは死ぬのだろうか、コトバはどこに行くのだろうか。
今のこの世界で“ポポイ”を感じられる場所はあるのか。
それともそのコトバはすでに死んでしまったものなのか。

時の断層の中に埋もれてしまった言葉や感情が、実は、たくさんあるはずだ。意味づけはいらない。掘り起こしたものをただ眺めたいのだ。

幼少期のあの風景は、もう二度と見ることはできないが。
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by mikeneko301 | 2012-11-05 22:48 | 雑感
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