CAT'S EYE(猫の視点)

敗北の果てに見る風景

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子どもの頃は、自分の知っている世界の範囲がまだ狭いにもかかわらず、目にする風景は現在のそれと比べて広かったように思われる。本当に幼かった頃、たとえばまだ少ししか歩くことができず、一日の大半をベッドで過ごした頃、自分の意識は常に外界に向けられていた。その代わり自我と向き合うことは無かった。

ところが成長するに従い、意識が自我すなわち内面に向かっていく頻度が高まるにつれて、風景は徐々に狭まってきた。外界に関する知識が以前よりも増しているにもかかわらずである。このことは、風景というものが自我に対して対立的に存在していることを示しているのであろうか。

しかしながら、自我に向かい時には葛藤している時でさえも、自分の周囲にある風景は存在しているのである。ただ、その見方は明らかに違ってくる。風景というものは、見ているその人の心情や世界観を映す鏡である。もし、誰か別の人と同じ風景を見ている人がいたとして、彼らの魂が入れ替わったとしたらどうであろう。おそらく目にしている事物は何一つ変わらないにもかかわらず、彼らは世界のあまりにも大きな変貌振りに驚くに違いない。身体や自分達の置かれている状況や心情の違いが世界観の違いを生み出し、目にする物理的な事物を用いてそれぞれの風景を創り出しているからである。風景は自我に対して対立的に存在しているのではなく、内在的に存在しているのだ。

時として、何かに思い悩んだりした末に、ふと視界が開けるような気持ちになり、何らかの結論に辿りつくことがある。敗北という体験も、同じような感覚を引き起こす。およそスポーツであるにしろ、精神活動であるにしろ、闘争の相手は結局のところ自分自身の自我であることが多い。

風景は、それが敗北という形であれ他の形であれ、それらの闘争に区切りがつき、自我に向ける我々の眼差しが一瞬ゆるんだ時に、それまでとは違う思いもよらない方向から意識の中に滑り込んでくるのである。そのような時に見る風景は、時として悲しいほどに美しく、何か懐かしい気持ちにさえさせることがある。恐らくそれは、外界に向ける視線、すなわち意識の強度が一瞬幼い頃のそれと似るため、そう感じるのだろう。

そして人は、自我に向ける視線を消し去ることにより、永遠にその風景の住人になることを潜在的に望んでいるのだ。


※19歳の時に藤原新也の『幻世』にあるエッセイ「四十二・一九五キロの旅」からインスパイアを受けて書いた文章。
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by mikeneko301 | 2012-10-17 21:26 | 雑感
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